蜘蛛の糸

 

 

 崩壊の足音が聞こえた時にはすべてが手遅れだった。

 顔見知りから始まって、クラスメート、親しかったはずの友人と、波が引くように静かに彼の存在を忘れていく。それに従うかように彼自身もまた何かをけずり取られていった。

 それでも彼を忘れずにぎりぎりの一線で踏みとどまらせてくれる人物が彼にはいてくれる。

 そこには掛け値のない無償の愛が散りばめられていて、瀬戸際の淵に追いこまれているはずなのにきらきらと輝いていた。

 でもそれは脆く壊れやすいからなのかもしれない。

 幸せは長く続かないからこそ、実感できるからなのかもしれない。

 ただし、懐かしむ時間すら残されていない者にとってはどうなのだろうか。

 

 

「浩平、朝だよ〜」

 カーテンが開かれて、柔らかな朝日が部屋を照らす。

 彼はぬかるみの中に落ちこんでいたような眠りから目を覚ました。全身がじっとりと汗で濡れている。不快ではあったが起きる気力はなかった。

「あれ? 浩平?」

 彼女はいつもと変わらないように気を使ってくれている、それが分かってしまうから腹立たしい。自分に対しても、そして彼女に対しても。

 固く目をつぶってやり過ごそうとする。

「浩平ってば〜」

「……学校には行かない」

 行ってどうなるというのだろう? 空気のように見過ごされたり、教室で不審人物のような目で見られたりするかもしれないのに。あんな目で見られるのはもう耐えられない。

「なんだ〜、起きてるんじゃない……だめだよ、ちゃんとしなくちゃ」

 目の前の少女もそれは分かっている筈なのに。心の底からどろどろした嫌なものがじわりと溢れ出そうとしている。かすかな悪夢の残滓が表の世界に顔を出そうとしているようだった。

「だから起きない」

 きっぱりと拒絶する。けれど、彼女は諦めようとしない。

 必死に抑えつけているのに分かってくれないのだろうか。彼は心のささくれだった部分がさらに広がっていくように思えた。

「ほらぁ、起きなさいってば〜」

 でも、彼女としてもそんな彼から目を離すのが怖かったのだ。ふとあくびをした一瞬で消えてしまうかもしれない。初めはそんな話を聞かされても一笑に伏してはいたが、実際に周りの変化に気づいてしまうと居ても立ってもいられない。

 不安だ、不安だからこそ変わらない日常を望む。朝起こして、一緒に学校に行って、お昼も一緒に食べて、一緒に帰る。繰り返す穏やかな日々、それだけをただ願っていた。

「起きてよ〜」

「うるさいんだよっ!」

 しかし、彼はついに手をはねのけた。

「えっ?」

 彼女が傷ついた表情で弾かれた手を呆然と見つめる。その意味を彼女が理解するよりも早く彼は叫んだ。

「いつもいつもいつもっ……!」

「ええっ?!」

 彼女の望み通り彼は起きあがった、しかしその顔には笑顔のかけらもない。怯えてあとずさろうとする動きに彼の怒りがさらに増幅された。

 そして、もうどうでもよくなってしまった。とてつもなく乱暴な考えが彼の脳内を支配する。

「浩平? ……やめてっ……むむっ」

 彼はなにかを叫びかけた彼女の唇を反射的に塞いでしまうとそのままベッドに押し倒した。ベッドの中のスプリングがきしんだ音をたてる。

「きゃあっ?!」

 一瞬だけ離れた唇からこぼれた悲鳴に舌打ちをすると今度は手で口を塞ぎにかかった。 そして本能の赴くままに制服の中で息づくふくらみを荒々しく揉みしだくと、彼女の喉から苦しげなうめき声が漏れる。

 彼はすぐに制服と一緒に薄いピンク色の下着を押し上げると、直接そこにむしゃぶりついた。

「やめっ、お願いだから……」

 ようやく手が離された唇から悲痛な声が漏れる。

「消えてしまうならな……」

「だめだよ……きゃあっ!!?」

 手首を抑えつけていた右手をはずし、スカートの下に潜り混ませようとする。非力な彼女の手ではもはやそれを防ぐことはできなかった。

「っ!!?」

 ならばせめてもとずり上がろうとする動きを体重をかけることで制し、彼は下着に手をかけた。途中で膝に引っかかるが構わず力任せに足首まで引き下ろす。右足首に丸まった下着と乱れた制服がとても扇情的だった。

 彼は荒々しい息をつきながら自分のパジャマのズボンも下ろした。

「浩平ってば!」

 説得を試みようとするが意図的に聞こえない振りをされる。

「恥ずかしいよっ……」

 場違いな感想、というか動転のあまりわけの分からない言葉を口走ってしまう。

 その間にも準備を済ませた彼は両足の間に体を潜りこませた。

「だめだよ、それだけはっ……」

 両の瞳に想いを込めて彼を見つめるが、それすらも彼にとってはひとつの味付けに過ぎない、却って力を漲らせたそれを彼女に押し当てる。

「いくぞ……」

「や、やだよっ!」

 最後の望みも絶たれた。

「うぐっ?!!!」

 突き破る音と共に激しい痛みが彼女を襲う、そして彼には痛いほどの快感が。

「……ああ、こんなのって……こんなのって……」

 突き上げにあわせてがくがくと彼女の首が頼りなさげに揺れる。目尻からこぼれる涙が密かにシーツを濡らしたが彼には見えなかった。

「くっ……でそうだ」

 初めての経験は想像以上の快感をもたらす。

「や、やめてっ!!? 今日はっ?!」

 言葉の意味を悟った彼女が顔色をさっと変えた。これまで以上に腕を突っ張らせて逃れようとする。だが一時の快感に溺れている彼はその意味を知ることができなかった。 

 やがて彼が果てたとき、その部屋には放心した表情で横たわる彼女だけが残されていた。

 

 

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 彼は白い世界から黒い世界に突き落とされた。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 それ以来彼は立ち止まることさえできず、一点の光も差さない闇の中を走り続けている。

「ひどいよ……」

「こんなことするなんて……」

 なのに後ろから追いすがる声が離れない。怨嗟と憎悪が弱い心を抉り、潰し、滅茶苦茶に引き裂こうとする。

「信じていたのに……」

「やめろっ!!」

 足を止めることはできない、鉛をいれられたような鈍い痛みが地面につけた部分から全身に広がっていくとしても。

 止まってしまえば、そこですべてが終わってしまうような気がする。終わった先に何があるのか分からない。

 恐ろしい。

 だから走る。

「……むだだよ」

 闇の中から現れた少女が冷ややかな視線を彼に向けた。不思議と走る彼の視線の中に常に納まっている。

「ここはあなたじしんがつくりだしたせかいだもの」

 ひょいと現れては、冷酷な視線を向ける幼い彼女。闇の中で映える白いワンピースのすそがひとりでに揺れている。

「連れてきたのはお前だろうがっ!! いいかげんにここから出しやがれっ!!!」

「わたしにどなってもしょうがないよ」

「くそっ! くそっ!」

 後ろから恨めしげな声、前には少女。

「わたしだってかなしいんだよ……ひつじたちだっていなくなってしまったよ」

「そんなの知るかっ!!」

 目を閉じて彼は走る。

「ひどいよ」

「知らないっ……!」

「…………」

 少女は弱々しい笑みを浮かべて消える、ここに来た時はそれで終わりだった。 

 しかし、

「おにいちゃん……」

 哀れなほどびくんと体を震わせ、彼はおそるおそる目を開いた。

「……なんでだよ」

 声にも、そして少女を見つめる目にも力はない。

「くるしいよ……」

 その言葉に彼は止まった。自分の背の半分ほどしかない少女を前にして止まらざるをえなかった。後ろからの声はすでに聞こえなくなっていたが彼の意識にはなかった。

「たすけてよ……」

「やめてくれっ!!!」

 少女がパジャマ姿のままふらふらと近づいてくる。しかし反応しようにもまるで底なし沼にはまってしまったかのように動くことができない。

「ねえ、おにいちゃんはやさしいからいっしょにくるしんでくれるよね?」 

 少女が無邪気でとても残酷な笑みを浮かべた。

「ははは……」

 彼は呆然と膝を折った。するとちょうど彼女が手を伸ばした時に首に手のかかる位置にくる。小さく可愛らしい手がゆっくりと伸びていっても彼はただ虚ろに笑うばかりだった。

「……え?」

 そんな彼の目に一本の糸が降りてきた。糸に見えるのはかすかな光だった。

 天から舞い降りてきた光は確かな存在として、埋め尽くす闇を侵食する。

「あれ……?」

 少女が戸惑ったような声をあげ、光がだんだんとふたりに近づいていく。

「おにいちゃん……」

 少女はあっけないほど簡単に消えた。

 彼もそれに触れたとき、肉体も、精神も、闇も、すべてが消滅した。

 

 

「赤ちゃんってこんなに可愛かったんだ〜……」

「そうだね」

 彼女が意識を取り戻した時、すべてを忘れていた。そして数ヶ月後、初めて自分に起こった変化に気がつく。

 優しい両親は娘に起こった出来事に狼狽し、懊悩し、心労で髪に混じる白が増えた。

 彼女は珍しく強情だった。

「それにしてもほんとに産んじゃうんだもんね〜、凄いわあんたは」

 心ない周りからの声にも彼女は最後まで自分の意志を貫いた。

 彼女にはそんな選択肢など初めからなかった。

 常に慈しむような視線を赤ん坊に向けて微笑んでいた。たとえ多くの人が望まない子供だとしてもこの後にどんな困難が待ちうけていても。

「……確かに可愛いんだけど、素直に可愛いと言えないのはなぜなのかしらねえ」

 おさげの少女もつられるように覗き込む。笑顔を浮かべた赤ん坊は目の前に下りてきたおもちゃにさっそく興味を示した。

「って、ぎゃあああああっ?!!! おさげっ?!! おさげがっ?!!!」

「だ、大丈夫、七瀬さん?」

 遠慮なく握られあまつさえ口にいれようとする赤ん坊の行動に、首を曲げたまま彼女は情けない表情を浮かべた。

「大丈夫じゃないわよっ! 痛いっ! なんとかしてよっ!!」 

 母親になったばかりの少女が優しく言い聞かせるように赤ん坊に声をかける。

「だめだよ、『浩平』」

 それはある晴れた日のこと、どこにでもあるような午後の風景だった。

 

 

 

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